戦国時代、戦乱によって荒廃した京都に代わって、文化・経済の中心地として堺が興隆します。応仁の乱の後、三好氏の権勢から松永久秀、更に織田信長と関西全域で目まぐるしく勢力図が交代して激動期に突入しますが、同時に堺商人達が大活躍した頃でもありました。信長と堺衆との関係ばかりがクローズアップされがちですが、この頃は信長ばかりでなく、影に日向に、堺商人が時の勢力と密接な関係を築いていたので、自然と国内の最先端の情報や文物が集積する土壌が出来上がったと考えるべきかも知れません。
さて、奈良の東大寺正倉院には古くから日本一の名香とされる蘭奢待が納められていますが、信長が奈良に入った際、この蘭奢待を切り取って持ち帰った逸話はとても有名かと思います。信長が奈良に入ったのが天正2年(1574年)、久秀による東大寺大仏殿焼き討ち事件が1567年なので、その7年後になります。そして、この前年に信長包囲網と久秀のクーデター失敗によって、現在の奈良市北部に位置する多聞山城を織田勢に差し出して降伏し、室町幕府の最後の将軍となった義昭も京都を追放された直後の信長入洛になります。
信長による蘭奢待切り取り事件は、信長が強奪したかのように、まるで傍若無人な振る舞いかのように考えられていますが、実際にはもう少し政治的な意味合いがあったのかも知れません。京都と奈良を中心とした関西圏の一応の平定というか、大阪の石山本願寺との対決に先立ってというべきかは難しいところですが、久秀の降伏と義昭追放による新たな権力奪取の政治的アクションとして東大寺の蘭奢待切り取りがあったと考えた方が良いように思います。
さて、信長自身が短刀を差し込んで切り取ったとされる蘭奢待は、その後一片は時の天皇に献上され、もう一方は、京都の相国寺で行われた茶会で焚かれたとされています。茶会には堺衆が呼ばれ、その会が終わった後、津田宗及と千利休にのみ扇に蘭奢待を添えて与えられたそうです。
巡り巡って、この信長の切り取った蘭奢待は、不思議な縁で堺の地に伝わっていたのかも知れません。