竹内街道は、堺市内の開口神社から仁徳御陵で有名な百舌鳥山古墳群を抜けて、藤井寺市にある誉田八幡宮のすぐ傍を通過して太子町に入ります。この太子町は古くから「近つ飛鳥」とも呼ばれていました。20年ほど前に近つ飛鳥博物館が開館して、この名称も少し全国的に知られるようになっているのではと思います。近つ飛鳥の由来は、古事記に記されてますが、難波の方から見て現在の奈良県の明日香を”遠つ飛鳥”、羽曳野市あたりを”近つ飛鳥”と名付けたそうです。
この太子町は、聖徳太子に由来する名前ですが、聖徳太子の墓所とされる叡福寺や、それ他にも推古天皇陵や遣隋使の小野妹子の古墳や墓が残される歴史遺産が残る町です。今では静かな農村ですが、竹内街道のかつての姿がよく残る歴史を感じさせます。
二上山を越えると奈良県に入りますが、二上山の麓には法隆寺と並ぶ古刹で知られる当麻寺があります。当麻の集落に中にある長尾神社が竹内街道の東側の終点になり、奈良盆地を東西に結ぶ横大路を進むと飛鳥へ、北上すると奈良市街に入ります。奈良盆地の南西に当麻の町があって、北にかつての奈良の都がありますが、その途中に法隆寺で有名な斑鳩があり、かつて聖徳太子が居を構えた宮があった場所です。
日本書紀によれば、竹内街道が整備されたとき、聖徳太子は推古天皇の摂政として活躍していた時期に当るので、ちょうど聖徳太子縁りの史跡が街道に沿って沢山残されています。大阪市内で聖徳太子に縁のある史跡といえば、四天王寺が有名ですが、奈良に比べれば大阪市や堺市内に縁のある史跡は少ないように感じます。
堺に近いところでは、住吉大社のすぐ近くに一運寺があります。かつては一帯が留学僧など多くの往来があった賑わいだ場所だったはずですが、そうしたかつての名残りが微かに感じられるところです。
この一運寺の縁起によれば、聖徳太子が夢を見て、42歳の時この地に自らの厄除けの意味も込めて七堂伽藍を建て転法輪寺と名付けたとされています。住吉にある由緒ある古刹という事で、航海の無事祈願を兼ねて歴代の高僧がこの寺院を訪れたそうです。東大寺の再建に奔走した重源や、法然上人も一時期滞在していたという謂れが残されています。
そして、この寺院にはもうひとつ広く知られているところでは、赤穂浪士の大石内蔵助良雄、その子の主悦良金、寺坂吉右衛門の三基の墓が祀られています。本来の赤穂浪士の墓は東京の泉岳寺にありますが、なぜ大阪の住吉にも祀られているかというと、相応の理由があるようです。
香りの物語からは少し離れてしましたが、大阪市内には思いがけない歴史遺産が重なり合うように街中に溶け込んでいます。開発が目覚しい天王寺から住吉大社、大和川を経て堺に進むと今では下町風情の残る住宅地になりますが、ゆっくりと散策していくと、まだまだ色々なものが見つかりそうです。