南宗寺は、近畿一円に大きな勢力を持つ戦国大名である三好長慶によって、京都の大徳寺の高僧だった大林宗套を招いて創建されました。大徳寺といえば、応仁の乱による焼失の後、あの一休禅師が住持に任じられ、再興した事はよく知られているかと思います。利休切腹の口実にされた楼門も、利休が大徳寺に寄贈してものであることは有名かと思います。
さて、一休禅師も少なからず堺に縁がありましたが、当時大徳寺は足利義政らが興した東山文化を継承した先端文化の発信地という側面もあったようです。侘び茶の開祖とされ、後に武野紹鴎に影響を与えた村田珠光も、一休禅師と親交があり禅の精神を学んだと伝えられています。
そうした都の先端文化を堺に招いた文化的拠点として南宗寺は大きな役割を果たす事になりました。
南宗寺は、三好氏の菩提寺として創建されましたが、茶人としてもよく知られた大林宗套の元に、堺衆がこぞって参禅し、そうした中から紹鴎や利休といった優れた茶人が育っていきました。こうして南宗寺は後の茶の湯の文化で重要な役割を果たていきましたが、他にも様々な京都の文化を堺の地にもたらしました。
連歌師として知られる牡丹花肖柏は、応仁の乱の戦禍を逃れて1518に堺に移住し、1527に亡くなるまでの間、堺の紅谷庵というところに住んでいました。肖柏は、宗祇に連歌を学び、三条西実隆らと交遊して源氏物語や伊勢物語を学んだ、花と香と酒を愛した放浪の歌人として知られ、堺衆に源氏物語の秘伝を伝えたとされています。
現在の堺線香も、そのルーツのひとつに肖柏が堺に伝えた香の秘伝が上げられています。また肖柏と交流のあった和学者の三条西実隆は、香道の流粗とされています。南宗寺では、禅宗と共に京都の最先端の学問や芸術がもたらされ、そこで茶の湯やお香が堺商人達の間で新たな文化として育まれることになりました。