恐らく源氏物語の中でも最初のエピソードとして登場する空蝉は、相当広く知られていると思います。第3帖の「空蝉」こそ後々まで源氏に深く影響を与えた女性と言われ、実は平安貴族の女性のひとつの理想像を表していると言えるかも知れません。空蝉は、元々上流貴族の娘であり、宮仕えを希望していたものの父が早く死んでしまって、止むを得ず伊予介(現在の愛媛の地方官僚)の男の元に後妻として嫁ぐことになります。そうした境遇を恥じて、夫への愛情も薄かった空蝉ですが、前述のように偶然にも紀伊守邸で光源氏と会って心を寄せてしまいますが、不釣合いな身分であることを自覚しつつ源氏を遠ざけてしまいます。
後々このエピソード以降、光源氏は空蝉への想いを抱き続けながら、物語はゆっくりと進行していきます。まず物語の中では、空蝉はシンボリックな形で登場します。平安貴族の女性の典型として空蝉が描かれているというより、むしろ物静かで慎み深いが機知に富んだ女性、今時風に考えれば教養があって頭の回転も良い、自立心旺盛な女性として空蝉は描かれているといった方が適当かも知れません。
物語は、まず源氏が再度紀伊守邸に赴くと、空蝉は先妻の娘、義理の娘である軒端荻と碁を打っていました。その様子を源氏は眺める様子が詳細に描写されます。侍女達が寝静まった後、源氏は空蝉が寝る寝室へと向いますが、そこには既に寝入ってしまっていた軒端荻も一緒でした。空蝉の方は、源氏の事を思い出してなかなか眠り付けない日々を過ごしていた様でしたが、そこに衣服の薫物(たきもの)の香で源氏が部屋に入ってきた事に気付き、そっと寝室を抜け出してしまいます。結局、源氏は既にぐっすりと寝入っていた軒端荻と、自分の恋人と暗闇の中で間違えた事に気付きますが、既に後の祭りでした。
物語のエピソードは、源氏が上手くその場を取り繕って、空蝉が部屋に残した一枚の薄衣だけを持って、源氏は家に帰ることになります。
後日、この空蝉が一枚残した薄衣を巡って、物語は手紙と香りのやりとりになります。源氏が書き記した手紙は、
空蝉の 身をかへてける 木のもとに なほ人がらの なつかしきかな
という歌で、薄衣に空蝉の残り香を感じて、身近なところに置いていたのですが、それに対し空蝉の返事は、
空蝉の 羽に置く露の 木隠れて 忍び忍びに 濡るる袖かな
という歌を残しています。空蝉の方も源氏に持ち帰られた薄衣が気がかりなようで、「伊勢をの海人のしほなれてや」という後撰和歌集の歌を引用しています。着古しで汗ばんだ着物に恥ずかしさを感じている、という描写になるでしょうか。
やはり空蝉の物語は、源氏の着物に焚き染めた高貴な香りよりも、空蝉が残した薄衣の残り香の方が主題になっているように感じます。空蝉の身分は、源氏に比べればそれほどでもないので、源氏のような薫物は到底使える訳でもなく、しかも普段着ですからそこまで良い香りを焚き染めていたわけでもなかったかと思います。ただし源氏にとっては大事な恋人の残り香でもあり、とても大事な物、教養のある空蝉にとっては、源氏の気持ちは察しても、とてもどうこうなるような関係ではない、と悲しい気持ちになってしまう、そんな情景が空蝉の帖では描かれています。