源氏物語は日本最古の恋愛小説とも、世界最古の長編小説とも呼ばれています。平安時代の優雅な宮廷文化の中で登場する多彩な人物像と、四季を通じて変化する情景描写と共に、物語は静かに進行していきます。多くを説明するまでもないでしょうが、紫式部が描いた源氏物語は、後世になって数々の注釈本が編纂され、次第に多くの人々に広く親しまれるようになりました。近代以降も現代語訳の源氏物語が数多く描かれ、最近はアニメやコミックに登場したりもします。その中でも、特に堺を代表する歌人与謝野晶子による現代語訳は、良く知られているかと思います。
漢詩への造詣が深かった紫式部の繊細な人間描写は、千年ほど経っても、古典の枠を超えて現代人を魅了する事について今更説明するまでもないかも知れません。また源氏物語は、度々「香りの物語」とも言われます。季節の花の香りや、衣類に焚き染めた香など、物語の進行の大事な小道具として頻繁に登場します。
ところで源氏物語が書かれた平安時代に、どれほど魅力的な香りのお香が調合されていたのでしょうか。
この頃のお香は、香木を粉にして蜜などで練り固めた練香、香木を砕いて袋に入れた現代の匂い袋のようなお香、火桶にくべたり火取香炉で焚いて室内で楽しむ空薫物など、現代とそう変わらない香りの楽しみ方が工夫されていました。その代表的なものが「六種の薫物」と呼ばれ、源氏物語の中にも度々登場します。
季節によって衣類に焚き染める香りも少し違いがあって、その代表的な香りが六種、とされてます。この薫物の材料は、沈香、丁子、白檀、薫陸、麝香、甘松、甲香といった現代でも使われる香木で、恐らく奈良時代頃に仏教と共に原材料の香木が持ち込まれ、平安時代には既に貴重な香りとして重用されていたものと思われます。
これらの香木をそれぞれ秘伝の調合により代々受け継がれ、それが現代のお香の源流となっています。そう考えると、光源氏や薫の人々を魅了する優雅な香りも何となくイメージできるかも知れません
さて、源氏物語の香りのエピソードは、「二帖 帚木(ほおきぎ)」で早速登場します。夜中、光源氏が空蝉と会う際、暗がりで通り過ぎる衣類の残り香で、女房中将が源氏だと気付く大変有名な一節です。源氏物語の有名な導入部ですから、このエピソードは良く知られているかと思います。空蝉は聡明で源氏に影響を及ぼした女性として描かれていますが、実はこの帚木の章は凝った構成になっていて、源氏の衣類の残り香が最初の香りという訳ではありません。
「帚木」は、光源氏のライバル頭中将との宮中での会話から始まります。そこに左馬頭と藤式部丞が現れて四人で始まる有名な品定めの章です。実は源氏物語の香りのエピソードで最初に登場するのは、知己の女性のところに久々に出向いた式部丞が夏薬のニンニクの匂いで慌てて帰ったという話。
この夜中の女性談義の後の翌日、有名な空蝉のエピソードになります。丁度5~6月頃の雨の多い頃、晩春から初夏にかけてのジメジメした季節の中で稀に晴れ間を覗かせた日、源氏は空蝉との最初の出会いのエピソードは、衣服に薫き込めた残り香によって強烈な印象を残します。
蒸し暑い梅雨時の話なので、源氏が焚き染めた香りは、恐らく清涼感のある精悍な香りだっただろうと思われますが、ここでは源氏の香りの詳細は登場しません。その後空蝉の話が続いて、次第に源氏が思いを寄せる女性の詳細が徐々に明らかになっていきます。源氏の持つ妖しげな魅力をその残り香で表現すると共に、直前の式部丞の笑い話で登場するニンニクの香が対比的で、源氏のキャラクターを際立たせています。後々物語の中で、より詳細に香りが登場する場面もありますが、ここでは源氏のキャラクターを引き立たせるための暗喩のような扱いになっているようです。